【枕草子春曙抄】つれつれなるもの/つれつれなくさむるもの

「つれづれ」と言ったら、まずは「徒然草」が思い浮かびますよね。しかし、もちろん「つれづれ」は兼好法師が作った言葉ではありません。


第百四十二段

【本文】
つれ/\なるもの[しつかにさひしき事也]

ところさりたる物いみ。
むまおりぬすぐろく。
ぢもくにつかさえぬ[除目に官をえぬ也]人のいへ。
雨うちふりたるは、ましてつれ/\なり。

【解説】
ところさりたる物いみ
ふかくつゝしむ時、家をさり外にて物忌する也。

むまおりぬ双六
馬は賽(サイ)の事也。晋書袁彦道(シンジョエンゲンタウ)が傳に、馬[ヲ]投[タフシテ]絶叫[ケウス]とあり。是博局にむかひての事也。むまおりぬは、双六に思ふ目のおりぬ也。

【拙訳】
なにもできず、どうしようもないもの。

物忌の日は、あれもダメこれもダメと、いろいろ制約が多いわけだけど、自宅にいることもダメとなると、もう本当に何もすることがない。

双六でサイコロを振ってもいい目が出ず、駒を思い通りに動かせないときは、どうにも手の打ちようがない。

除目で官職を得られなかった人の家は静まり返っている。

雨がひどく降っているときなども、やりたいことができなくて、気が滅入る。


第百四十三段

【本文】
つれ/\なくさむる物

物がたり。
ご。すくろく。
三(みつ)四ばかりなるちごの、物おかしういふ。又いとちいさきちごのものがたりしたるが、ゑみなどしたる。
くだ物[菓子也]。
おとこのうちさるがひ物よくいふがきたるは[イに]、物いみなれどいれつかし。

【解説】
おとこのうちさるかひ
前にさるがふ事とあるにおなし。猿楽とて狂言などいひたはるゝ也。

物いみなれと
つゝしむ折なれど、興ある人なればいるゝと也。

【拙訳】
退屈しのぎになったり、沈んだ気持ちを晴れやかにしてくれるもの。

物語を読むこと。碁や双六で遊ぶこと。

三、四歳ほどの小さな子が覚えたての言葉で一生懸命に話をするとき、その相手をすること。また、もっと小さな子が何か話をしたり笑ったりするところを見ること。

菓子を食べること。

おかしなことを言って人を笑わせる男が来たら、物忌のときでも家に入れてしまうよね。


「つれづれ」の意味するところがよく分かりません。「何もすることがない」という意味が基本であるのは、まあそうなのでしょう。

季吟先生の注に「静かに寂しいこと」とあるとおり、これも「つれづれ」なんですね。除目で官職を得られなかった人の家にはピッタリの表現です。

一方、双六で思うような賽の目が出ないというのは、寂しいというよりも、なんとも手の打ち用がない行き詰まった状況のように思われます。これも「つれづれ」。ちなみに、この時代の双六は、現代のバックギャモンに似た、戦略性の高いゲームだったようです。

ところで、兼好法師は清少納言の時代から300年も後の人ですが、徒然草には枕草子の引用も出てきますね。

枕草子:(法師を)木の端などのやうにおもひたらんこそ・・・
徒然草:(法師は)人には木の端の様に思はるるよ、と清少納言が書けるも・・・

それまでの300年間も、その後の700年も、枕草子は読み継がれ、書き写され続けてきたんですねえ。


表記の原則、参考文献等はこちらをご参照ください。

誤りなどありましたら、ご指摘いただけると嬉しいです。
以下は私がスキャンした紙面です。ご自由にお使いください。

2件のコメント

  1. むまおりぬ双六

    について、雙六を愛好する者として、コメントいたします。

    「むま=馬」とは、「コマ(石)」のことです。
    「おりぬ=エンターできぬ状態」で、雙六では相手にコマをヒットされて盤外に出されてしまうと、次の自分の手番にサイコロを振り、その出目に従ってボードにコマを出さない限り、他のコマを動かすことができなくなります。
    そして、これは重要なルールなのですが、相手のコマが2個以上置かれた升目に対して、コマは入ることができなくなります。

    もしも、相手陣地の1から6までのマスのそれぞれに、相手のコマが2個以上あると、どの出目でも盤上にコマを置くことができなくなり、このようにクローズアウトされてしまうと、強制的に手番がパスとなりますから、サイコロを振ることも許されません。
    このルールは、現代でも遊ばれている「バックギャモン」でも同様で、戦術的にもこのようなプレイを目指します。

    清少納言は「雙六遊びは好きだけど、相手にシャットアウトされるとコマを戻すこともできず、サイコロを振ることも許されないので、そうなってしまうと、只々退屈ね」と言っているのでしょう。

    1. 石川様。
      ご知見をお聞かせいただきありがとうございます。
      なるほど、ふむふむ、です。
      なお、北村季吟の解説(頭注)に「馬は賽(サイ)の事也」とあるので、拙訳もそれに準じていますが、季吟先生も双六には詳しくなかったかもしれませんね。

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